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2025年シーズン、終幕。

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  2025年、横浜ベイスターズのシーズンが終わった。 最後は、阪神に完敗だった。 あんなにも力の差を見せつけられることになるとは思わなかった。 巨人に見せたあの快勝劇。 球場のボルテージが最高潮に達したあの夜から、ボクらは夢を見た。 そのままの勢いに日本シリーズまで駆け上がることを。 でも阪神は強かった。本当に強かった。 チャンスを逃さず、綻びを見逃さず、淡々と勝ちきる姿に、王者の風格すら感じた。 力の差は確かにあった。 それを見せつけられたクライマックスシリーズとなった。 悔しい。 それでも、それが今の実力なんだろう。 この数年間、ベイスターズは確かに変わった。 “夢を見られるチーム”になった。 Aクラスが当たり前になり、交流戦で優勝し、日本シリーズまでたどり着いた。 暗黒期が長かった。 最下位が日常だったあの頃、首位争いなんて、遠い世界の話だった。 けれど今は違う。最後まで優勝を争い、日本シリーズに立った。 それだけでも、胸を張っていい。 そして、そのすべての道のりに、三浦大輔監督の姿があった。確かにあった。 心から、ありがとうと言いたい。 1991年、大洋ホエールズにドラフト6位で入団。 1998年、38年ぶりの優勝。 FA権を行使せず、「横浜が好きだから」と残った背中。 200勝は逃したけれど、誰よりも横浜を愛し、闘い抜いた。 そして、監督として帰ってきてくれた。 苦しい時期もあったと思う。結果が出ずに責められた日もあったと思う。 それでも、ベンチに立ち続けた三浦大輔の姿を、ボクらはずっと見ていた。 その姿に、どれだけ救われたことか。 日本一の瞬間、胴上げされる三浦監督の姿を見たとき、涙が止まらなかった。 長く、遠く、苦しい道のりだった。 それでも歩き続けてくれた人の背中が、空へと舞ったあの瞬間。 あれ以上の喜びはなかったかもしれない。 でも、本音を言えば── 一緒にリーグ優勝したかった。心の底から、あの瞬間も味わいたかった。 それが叶わなかったことが、今はただ、悔しい。 三浦大輔とともに歩んだこの5年。 ボクらは確かに強くなった。けれど、まだ終わっていない。 またいつか、ユニフォームを着て帰ってきてくれることを願ってる。 その時こそ、常勝軍団として、リーグ優勝の景色を一緒に見たい。 ボクらは、その日までずっと、声を枯らして応援し続ける。 三浦監督...

夢の続きを共に見よう、筒香嘉智

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DeNAに買収され、中畑清監督が就任した。 まだまだ弱かったけど、ボクらは久しぶりに野球を楽しんだ。 中畑政権最終年、筒香嘉智はその芽を開花させた。 ボクらは1998年以来の優勝の可能性を感じる野球を見ることができたんだ。 ラミレス監督へと代わり、筒香嘉智は、その才能を爆発させた。 横浜の空高く。何度も何度もそのホームランを目にした。 打球音が響いた瞬間に、スタジアム全体が立ち上がり、息を呑んで打球を目で追う。 スタンドが届くその時に、静寂を切り裂いて大歓声が湧き起こる。 ボクらはあの時間が本当に好きだった。 初めてのクライマックスシリーズも味わえた。 制度導入後10年も待ったんだ。その感動はひとしおだった。 しかし悔し涙も味わった。その悔しさこそが野球を1年間楽しんだ証だった。 そしてラミレス政権2年目。 再びクライマックスシリーズに立った。 もちろん1年間、印象的なシーンは数多くあった。 けれど甲子園での「泥試合」。 泥だらけにながら打席に立つ筒香嘉智の姿。 ボクらは今でもありありとあのシーンを思い出すことができる。 そのままの勢いで日本シリーズに挑んだ。 1998年以来、横浜スタジアムで味わう日本シリーズの雰囲気は最高だった。 しかしまたしても勝利の女神を抱くことは、眼前にして叶わなかった。 もうすぐそこに見えていたのに。 ボクらは筒香嘉智の成長とともに、「優勝」という夢を追いかけていた。 1軍でポジションを掴んでから6年間。 毎年「優勝」が夢みれたのは、間違いなく筒香嘉智がいたからだ。 そして、自身の夢を追いかけて、アメリカへと渡った。 ボクらはそれを応援した。 筒香嘉智がいなくなってからも、ボクらは毎年「優勝」という夢を追いかけ続けた。 一昔前には考えられないことだ。4月にはシーズンが終わるチームだったんだから。 それでもボクらはまだ手にすることができていない。 勝利の美酒を味わえていない。勝利の女神を抱くことができていない。 そして、筒香嘉智が帰ってきた。 夢のアメリカで、辛く苦しい時間を過ごしてきたのだろう。 まだ諦めきれない思いもあるだろう。 それはボクらには想像することしかできない。 軽々しく口にするものでもないだろう。 けれど、ボクらはここから筒香嘉智とともに再び夢を見る。 ずっと彼と追いかけ続けている「優勝」という夢を。 そして必ずや手にするの...

ハマの一番星、度会隆輝。横浜に輝け!

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拝啓、度会隆輝選手。 横浜に生まれ、横浜に育ち、横浜スタジアムで野球を始めてみてから38年。 横浜大洋ホエールズから、横浜ベイスターズ、そして、横浜DeNAベイスターズと名前が変わっても、38年応援し続けた。 悔しく辛く苦しい時間のが長かった。時に目を逸らしたことも正直ある。 それでも、応援する心がなくなったことはない。どんなに辛く苦しくても応援し続けたんだ。 そして、2024年。 38年の横浜ファン人生で初めて開幕戦を観に行った。 そして 「ハマの一番星」の輝き を目の当たりにした。 38年応援し続けて、こんなルーキーは初めてだ。 未来の可能性を強く感じる。 打席に立つほどにスタジアムが湧き上がり、応援の声が自然と大きくなる。 若者の勇姿に、年甲斐もなく ワクワク させてくれる。 オープン戦首位打者。 球団64年ぶりの開幕戦新人本塁打。 セ史上初の開幕から2試合連続本塁打。 開幕戦の最初の守備機会でのミスも、伝説の序章のように感じた。 将来のスーパースターが、横浜にいる 。 心の底から横浜に来てくれた運命に感謝し、今後の成長に期待をし、1998年から離れている「優勝」という二文字を、久々に期待させてくれる。 誰もがそう感じた。 しかしそこから、数週間苦しんだ。 ファンも苦しかったけれど、それ以上に本人も苦しんだと思う。 軽々しく「気持ちはわかる」なんて言えない。 そのプレッシャー、悔しさ、辛さ、不甲斐なさは、想像できないほどのものだったと思う。 生まれながらスーパースターの道を歩み続ける人なんかいない。 最初からスーパースターなんていない 。 イチロー選手も、プロ1年目は40試合で打率.276、2年に至っては43試合で打率.188だ。 大谷翔平選手も、1年目は77試合で打率.238だ。 プロの世界はそれほどまでに厳しい。 誰しもが壁にぶつかり、その壁を乗り越えてスーパースターになる 。 それは度会選手は、わかっていると思うんだ。 高校3年のドラフト。プロ志望届を出したが指名漏れしたあの時に。 社会人野球で研鑽を積み、ここ横浜にドラフト1位として帰ってきた。 ハツラツとしたプレーが好きだ。 ベンチで大きな声を出している姿が好きだ。 野球を楽しんでいる笑顔が好きだ。 打った後の塁上のガッツポーズが好きだ。 お立ち台での「最高です!」が好き だ。 間違いなく、度会選手は...